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配慮ある多様性(Inclusive Diversity)に向けて 2020年の幕開けに思う

湯浅誠社会活動家・東京大学特任教授
(写真:アフロ)

時代的課題としての「配慮=インクルージョン」

2020年、令和2年が明けた。

年明けに、これからの日本社会の課題について考えてみたい。

私は、それは「インクルージョン」だと言ってきた。

オリンピックイヤーの課題というよりも、それを超えて2020年代を通した課題として。令和2年の課題というよりも、令和の時代的課題として

インクルージョン(inclusion)は一般になじみのない英語だが、相当する日本語を探すと「配慮」という言葉に行き当たる、と私は考えている(注1)。

その本質をもっともよく言い当てたのは、ある高校生だった。

彼はこう言った。

「歩くのがちょっとゆっくりな人とは、自分もゆっくり歩くじゃないですか。そういうことだと思うんです」と。

歩くのがゆっくりな人と一緒に歩くために、ちょっとゆっくり歩くこと。それがインクルージョン=配慮だ。

多様性はすばらしく、そして危うい

なぜそれが「他人にやさしく」という個人の道徳を超えて、社会の課題なのか

コトは多様性の評価に関わる。

「みんなちがって、みんないい」

昨年10月の臨時国会・所信表明演説で、安倍総理が金子みすずの詩を引用して、多様性を称揚した。

多様性礼賛の象徴のようなこの言葉を安倍総理が引用するのは、2012年の政権発足以来、15回の施政方針・所信表明演説の中で初めてのことだった(注2)。

「みんなちがって、みんないい」

新しい時代の日本に求められるのは、多様性であります。みんなが横並び、画一的な社会システムの在り方を、根本から見直していく必要があります。多様性を認め合い、全ての人がその個性を活かすことができる。そうした社会を創ることで、少子高齢化という大きな壁も、必ずや克服できるはずです。(第200回衆議院本会議・安倍首相所信表明演説)

出典:国立国会図書館リサーチナビ 施政方針・所信表明演説一覧

過去にこの詩を引用した総理大臣がいたか、私は知らない。

が、平成の終わり、令和の始めに、総理大臣の重要演説でこの詩が引用されたことを、私は感慨深く受け止めた。

私自身も、多様性を認め合う社会の実現を望み、歓迎しているからだ。

しかし同時に、私は「安易な多様性礼賛は危うい」とも言ってきた。

多様性と共同性は、相性が悪い

なぜなら、多様化は世の中を細分化し、分断し、生きづらい人を増やす方向にも働きうるからだ。

多様化とは「みんなちがう」ということ。極端にいえば、異国人同士の集団のようなものだ。「みんないい」とその存在を認めるのはいいが、どうやって「共同・協働」するのかと言えば、簡単でないことは容易に想像がつく。

たとえば家族旅行。

父はハワイに行きたい、母は温泉に行きたい、姉はディズニーに行きたい、自分はどこにも行きたくない、とする。

さて、「みんなちがって、みんないい」から導かれる結論は?

バラバラにそれぞれ行きたいところに行けばいい?

それでは共同性は成り立たない。

多様性は、自動的には共同性には至らない。

むしろ、多様性は本来、共同性に反している。

多様化とは、つながりにくい社会になることでもある。

あるのは「敬遠」「遠慮」「攻撃」

今、私たちが直面している課題の多くは、多様性のこの側面に由来するのではないか、と私は感じている。

若い人たちの多様性への身の処し方が、ある意味でそれを象徴している。

たとえば今の大学生は、小さいころから繰り返し、「みんなちがって、みんないい」と聞いてきている。

「違うことを批判してはいけない」「障害者を差別してはいけない」ことを、頭では十分理解している。

「みんないい」んだから。存在は肯定的に認めないといけない。

でも、じゃあつきあえるかと言うと、つきあえない。つきあわない。

存在は肯定的に認めるが、つきあえないので、共同性は生まれない。

むしろ目につくのは「敬遠」と「遠慮」と「攻撃」だ。

まず「敬遠」は、たとえば「意識高い」という言葉の用法によく表れている。

「意識高い」とは、外国人留学生が増えた大学で、留学生と積極的に交流しようとする学生や、学外の人脈を積極的に広げよう、政治や社会の課題に積極的に向き合おうとする学生を形容する言葉だ。

意識が高いのと低いの、どちらが良いかと言えば、高いほうがいいに決まっている。

ゆえに「意識高い」は、褒めた言葉、敬った言葉だ。

しかし実際の用法は「うわっ、意識高っ」と使う。

そこには、自分はつきあいたくない、というメッセージが込められている。

「意識高い」は、他人を敬して遠ざけるために使われている。

「個性的」も同じ。

多様性礼賛の中では、個性的であることは「良いこと」だ。

しかし「あの人、個性的すぎる」と、自分はつきあいたくないという意思表示としても使う。

「みんなちがって、みんないい。(だけど自分はつきあいたくありません)」というのが「敬遠」だ。

次に「遠慮」。

誰かが何かで思い悩んでいるようなとき、そこに踏み込むかどうかの選択を前にして、「そっとしといてあげようよ」というように使う。

遠くにいて、慮る。

それは積極的なやさしさとしてもありえるが、消極的に使われることもある。

「関わっても、どうせ背負いきれないから」だ。「違うんだから、どうせわかりあえないから」「かえって迷惑かもしれない」からだ。

こうして、関わらないことが正当化される。

「みんなちがって、みんないい。(だけど自分は関われません)」というのが「遠慮」だ。

そして「攻撃」。

対面する場面ではほとんど聞かず、主にネット上で展開されている。

人数も、多くはないだろう。

だが「みんなちがって、みんないい」という、上から与えられた「善いこと」のタテマエ感にうんざりしたときのはけ口として活用されることがある。

「みんなちがって、みんないい。(だけど自分は許さない)」というのが「攻撃」だ。

細分化と分断は、多様性の帰結

いずれの現象も、多様性に反しているのではなく、多様性が当然にもたらす結果だ。

だって違うんだから。違うものとつきあうのは、同じものとつきあうのに比べて、めんどうなのだ。

そのめんどくささが、違うものばかりの中で同じものを探させ、集まらせ(細分化)、その居心地の良さの中に踏みとどまることで、違いを理解できないものにしていく(分断)

家庭の中から大学のキャンパス、社会と国家、そして国際政治まで、今起こっていることは、こういうことではないか、と私は考えている。

繰り返しになるが、それは多様性からの逸脱ではなく、多様化がもたらす当然の帰結だ。

多様性だけでは足りない

しかし、だからといって多様性そのものを否定するべきではない。

現にある多様性を封じ込めて、純化させようとするのは、現実的ではない。

移民の受け入れを止めたところで、多様性から解放されるわけではない。

日本人同士でも、健常者同士でも、たとえ家族であっても、人と人は、すでに、十分、多様だからだ。

それゆえ必要なことは、多様性がもつ細分化と分断の傾向と向き合いつつ、それを乗り越える要素を多様性に加えることだ。

言い換えれば、多様性がすばらしいものになるためには、多様性だけでは足りない

配慮ある多様性(Inclusive Diversity)へ

そこで、配慮=インクルージョンが登場する。

今の多様性は、配慮なき(あるいは配慮できない)多様性(Non-Inclusive Diversity)だ。

ここから早く、配慮ある(あるいは配慮できる)多様性(Inclusive Diversity)の段階に進む必要がある。

「配慮ある」とは、相手の境遇やそこからの世界の見え方に関心を寄せ、それと自分を架橋することを指す。

たとえば、先の家族旅行。

父はハワイに行きたい、母は温泉に行きたい、姉はディズニーに行きたい、自分はどこにも行きたくない、となったとき、「みんなちがって、みんないいから、じゃあバラバラで」とならないためには、なぜ父はハワイに行きたいのか、なぜ母は温泉に行きたいのか、その意向が相手のどこからどのように出てきているのかに関心を寄せる必要がある。

そして尋ねた結果、母が温泉に行きたいのは年老いた祖母を連れて行きたいのだとわかれば、その母の想いに共感した自分の想いを父と姉に伝え、各自の「そういうことなら、今回は温泉でいいか」を引き出す必要がある。

これが「みんなちがって、みんないい」と「共同性」を両立させるために必要な「配慮」だ。

ハワイか温泉かに「正解」はない。帰ってきたときに「よかったね」とみんなで言い合えれば、そこが正解だ。それを「納得解」と言う。

納得解を作るために欠かせないのが「配慮」だ。

配慮は意思と工夫

2016年、障害者差別解消法が施行され、その中で障害者に対する「合理的配慮」がうたわれた。

内閣府のパンフレットには「障害のある人に『合理的配慮』を行うことなどを通じて、『共生社会』を実現することを目指しています」と書かれている。

健常者と障害者という多様な人たちの共同性は「合理的配慮」を通じて可能になる。

この場合の配慮(accommodation)とは、設備をバリアフリーにしたり、本人の求めに応じて便宜を図る、手助けするなど、具体的な設備や行為を想定している。

その背景には、相手に関心を寄せ、自分と相手を架橋するという意味での配慮(inclusion)がある。

「障害者との共生」と聞けば難しく感じるかもしれないが、要は「どうしたらいいですか?どうして欲しいですか?」と尋ね、相手の意向を聞き、自分にできることをして(応えられないこともあるだろう)、お互いの納得解にたどりつこう、ということだ。

その意味で、配慮は意思と工夫の問題だ。

多様性が、存在の多様さを認め合おう存在の問題であることと、レイヤーが異なる。

多様性は存在の問題、配慮は意思と工夫の問題。

この両者があって、初めて多様性と共同性が両立する。

多様化を細分化と分断に至らせないための鍵は、配慮(インクルージョン)にある。

だから細分化と分断に懸念を抱く私たちは、個人の道徳としてだけでなく、時代の課題・要請として、インクルージョンの課題に向き合う必要がある、と思う。

具体的には、配慮の意思と工夫を積み重ねることだ。

それは簡単で、そして難しい。

私たち全員が「配慮」の芽を持っている

簡単と言うのは、私たち全員がその芽を持っているからだ。

冒頭に紹介した高校生の言葉が、それを表している。

「歩くのがちょっとゆっくりな人とは、自分もゆっくり歩くじゃないですか。そういうことだと思うんです」

誰でも、そうした経験を持っているはずだ。

そこに、配慮(インクルージョン)の意思と工夫がある。

自分もゆっくり歩くことで、ともに歩むという共同性が成り立つ。

「障害者との共生」「外国人との多文化共生」「高齢者への思いやり」などと聞けば、難しく、決まった答えのある、知識の必要なことと感じるだろう。

しかし「歩くのがちょっとゆっくりな人」は、障害者・外国籍・高齢者とは限らない。健常で若い日本人の場合だってある

そして私たちは、相手が誰であろうと「歩くのがちょっとゆっくりな人」ならば、自分も少しペースを落とす。相手がどんな属性か、それによって何が正解か、などとは考えない

重要なのは、家族旅行と同じで「納得解」だ。

障害者だって高齢者だって、一人ひとり違う(それが多様性だ)。歩くのがやたらと速い障害者だっているだろう。

大事なことは、その人との正解を、その人との間合いの中で、見つけることだ。

それが「納得解」になる。

納得解は「相手の境遇やそこからの世界の見え方に関心を寄せ、それと自分を架橋すること(配慮)」によって生まれる。

同時に、とても難しい

同時に、これはとてつもなく難しいことでもある。

その難しさは、保護司として長く非行少年たちに関わってきた「NPO法人食べて語ろう会」理事長の中本忠子さん、愛称「ばっちゃん」の言葉に示されている。

「こんなにしたのに」という思いは全くない。うちの力が足りんかったと思うだけよ。今度はどういう方法でやればいいかと考える。「ばっちゃんはこう思うけど、どうじゃろ」と聞く。嫌だと言われれば、また話し合って違う方法を考える。その子はいまは専門学校に通っとるよ。

見返りを求めるボランティアならしない方がいい。相手に失礼。そんなんでは心が通じんでしょ。うちは、犯罪しない人がひとりでも増えればそれでいい

出典:朝日新聞2018年11月24日(フロントランナー)中本忠子さん「見返りを求めるなら、しない方がいい」(太字筆者)

家族旅行の調停役を買って出て、よけいにややこしくなったとき、

障害者に「お手伝いしましょうか?」と買って出て、邪険に断られたとき、

友だちのためにとひと肌ぬいだのに、かえって迷惑がられたとき、

自分と相手を架橋しようとしてうまくいかなかったとき、

「うちの力が足りんかったと思うだけよ」とあっさり言い切れる人は、多くはない。

「今度はどういう方法でやればいいかと」考えて、否定されたら「また話し合って違う方法を考えればいい」と思い切れる人は、多くはない。

ふつうは、そのめんどくささに耐えられない。

しかし耐えられずに投げ出してしまえば、納得解には至らず、共同性は維持されない。

2019年、ラグビー日本代表が注目されたのは、多様性の典型のような構成のチームが「ワンチーム」としての共同性を維持し、力を発揮したからだろう。

多様性が共同性を獲得できたとき、そのパワーは均質的な共同性を上回ることを、私たちは目にした。

私たちの社会も、そうでありたいと願う。

ラグビー日本代表は「勝つ」ために、そのめんどくささを乗り越えた。

私たちは、地域と社会、そして世界の平和と持続可能性を実現するために、このめんどくささを乗り越えたい。

ーーー

注1:inclusionは、辞書では「包含、包括、算入」などと訳されていて、「配慮」という日本語訳は、ない。

用法や意味を汲んだ「意訳」であることにご注意願いたい。

注2:「多様性」という言葉自体は、過去の2016年施政方針演説でも触れられている。

「女性も男性も、お年寄りも若者も、一度失敗を経験した人も、障害や難病のある人も、誰もが活躍できる社会。その多様性の中から、新たなアイデアが生まれ、イノベーションが沸き起こるはずです。一億総活躍への挑戦を始めます。最も重要な課題は、一人一人の事情に応じた多様な働き方が可能な社会への変革。そして、ワーク・ライフ・バランスの確保であります」(第190回国会・衆議院本会議)

社会活動家・東京大学特任教授

1969年東京都生まれ。日本の貧困問題に携わる。1990年代よりホームレス支援等に従事し、2009年から足掛け3年間内閣府参与に就任。政策決定の現場に携わったことで、官民協働とともに、日本社会を前に進めるために民主主義の成熟が重要と痛感する。現在、東京大学先端科学技術研究センター特任教授の他、認定NPO法人全国こども食堂支援センター・むすびえ理事長など。著書に『つながり続ける こども食堂』(中央公論新社)、『子どもが増えた! 人口増・税収増の自治体経営』(泉房穂氏との共著、光文社新書)、『反貧困』(岩波新書、第8回大佛次郎論壇賞、第14回平和・協同ジャーナリスト基金賞受賞)など多数。

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